先日ライフアートブログに「パワーを頂きました。」というタイトルで、田坂暁子さんのことを書かせていただいた。田坂さんは脳性麻痺のため、口と左手がわずかに動くだけの方なのですが、その手と口(と鼻)を使い、数週間、時には数カ月かけてひとつのちぎり絵の作品を作っていきます。

 彼女の作品の個展が開かれ、そのタイトルが「そこに在る嬉び(よろこび)」だったのですが、そこには彼女が見た瞬間の世界の作品が数多く展示されていました。

 その中で、幼稚園の子供がちぎり絵の作品としてあったのですが、その表情は何とも愛くるしく、「おそらく散歩にでも出た際に、幼稚園が終わり、バスから降りて、母親の所に行く時の姿じゃないでしょうかね。」と暁子さんのお姉さんが言っていたのですが、そこには子供の幸せと暁子さんが見つけた喜びの瞬間が感じられました。

 最近のことですが、個展のタイトルのように「そこにある嬉び」とは一体何なのだろうかとふと考えてしまう瞬間がありました。それは暁子さんは生まれたときから約60年間ベッドの上での生活をしており、しかも口と左手がわずかに動くだけ。そして時にわずかな時間を散歩等で病院から外に出ることができる。けれどもその短い時間の間に日常の中の喜びの瞬間を見つけれられることができる。(もちろんベッドの上からも喜びを見つけそれをちぎり絵として表現しています。)。考え方によってはん暁子さんにとっては病院の外は非日常的空間であり、そこに在るものすべてが別世界と言えるのかもしれませんが、それでも物事をとらえる感覚(意識)は私たちと同じか、それ以上でしょう。

 一方私たちは五体満足に生まれ、ほとんどの人が自由に動け、話すこともできます。けれどもその大半が不平不満を言っていることが多くあります。「それがいけない。あの人が悪い。あれが足りない。etc」。会話の中身ってそんなことでほとんど占められていることってないですか。そして欲求不満に陥り、病気にまでなってしまうという・・・。

 一方では不自由な生活の中に、小さな出来事の中からでも喜びを見つけることができ、片や一方では自由を得られながら、不平不満に終わってしまっている。これって一体何なのでしょう?「あるもの探し」か「ないもの探し」どちらを選択するか、そして物事をどうとらえるか・・・。

 そういう僕も以前は不平不満とないもの探しにあふれていました。いつも自分にないものを嘆き、自分の境遇に不平を言い、それを他人のせいあるいは社会のせいにしてきました。そして精神まで病んでいた時期もあります。
 でもいつのころか、それらを全部とはいかないまでも受け入れられるようになり、認めれらるようになってから、少しずつだけど、僕自身がそして生き方が楽んなってきました。

 足りないもの(こと)を認めて、努力していくこともひとつの方法です。また足りないものを(こと)を認めて、受け入れ、別の方法を考えたり、今あるもので代替えとするのも一つです。人それぞれだと思います。

 いずれにしろ日常の中から喜びの数が多ければ多いほど、その人の幸福度って高いものと思えます。そこってやはり「意識」これをどう向けるか、どう使うかってことだと思います。「意識が現実を創造する」のです。だったら如何に多くの喜びを意識の中に入れていくかだと思います。