昨日児童に関する専門家との話の中で「今の君たちは社会に合わし、合わせることができたから、現在のポジションがある。けれどもそれができない人(子供)たちは、自分に合すことしかできない。だからどんどん落ちていく。あるいは低いところ(ポジション)におらざるを得ない。」ということが出てきた。

 この話で最初に感じたのは「はたして僕は社会に合わせることができているのだろうか。合わせているならばもっと上の方にいるのでは・・・。もっと給料ももらえても・・・。」と違和感を覚えるのみで、正直僕自身のことしか考えなかった。けれども一日経って改めて考えてみると、2つの疑問が湧いてきた。

 ひとつは、今世界を見ると、世界が作りあげた現代社会に、国家自体がついていけなくなっているのではないかと思わざるを得ないということ。ギリシャ、スペインしかり。アフガニスタン、イラクもアメリカにも手がつけられなくなっている。シリア、リビアもそう。そして日本だってアップアップ状態じゃないだろうか。政治、経済、金融、国債、年金、いじめ、自殺、医療、雇用、教育etc どれをとってもにっちもさっちもいかなくなっているのが現状だ。

 国家という本来ならば民を治め、守るべき存在が身動きが取れない、社会について行けない状態であるのに、どうしてその民がついていけるだろうか。いけるわけがない。一体どれだけの人が今の社会に合わせられているのだろうか?例え合わせられているとしてもその中のどれだけの人が合わせることに必死になっているのだろうか?

 なんだか脱落ゲームを想像してしまう。揺れ動く樽の上で、表面上は笑顔を振りまきながらも、必死でしがみつく人々がいる。その揺れの傾きはだんだん大きくなっていく。それに合わせて人々の笑顔はだんだん消えていき、ひきつり始める。そしてそれは、国家が揺れ動いているだけではない。人間が作りあげた社会自体が揺れ動いているのだ。そんな樽の上に、一体何人の人が残れるのだろう。(誰も残れないだろう・・・。それが現代社会なのだ。

 そしてもうひとつ、「果たして僕たちは社会に合わせていく必要があるのだろうか。自分自身に合わせることはいけないことなのだろうか?」ということ。もちろん自分自身に合わせるということは、わがままし放題ということではない。(冒頭の会話の自分に合わせるということは、自分は世間に認められないという利己から来る世界に陥っていること。) そうではなく、もっと自分自身の心を見つめ、心が本当は何を望んでいるかを知り、それを実践していくこと。

 自分自身の心が本当に望んでいることを知り、それを実践していくことが、例え今の社会にあわないことであったとしても、いいじゃないか?社会に必死で合わせることで神経をすり減らしていくことと、現代社会から落ちこぼれても、自分自身(の心)が本当に望むことをやっていくこと、どちらがいいだろうか。

 一方はお金や権力は得られる。また欲しいモノも手に入る。けれども毎日過度の競争にさらされ、ストレスに悩まされる。一方ではお金や物質の自由はない。けれども心が望むことをするという充実感はえられている。

 どれを選ぶのかは自分次第。けれどもひとつ言えるのは現代社会は確実に崩壊に向かっているということ。そしてそれがソフトランディングとなるのか、ハードランディングとなるのか、今僕たちは岐路にいるということ。(あるいはもう通り過ぎて、どちらに転ぶか決まってしまっているかもしれない。)

 意識をどこに焦点を合わせるか。僕たちは何を選択し、何を実行していくのか、天から試されているような気がする。