三日月明かりに照らされながら散歩する。といっても、住宅街の中を歩くので、街灯の明かりやら、家の明かりに車のヘッドライトと明かりだらけなのであるが…。

 ついでながら耳を澄ませば様々な秋の虫が鳴いているのであるが、その鳴き声をかき消すように、車の走行音、救急車の音など人工の音があふれている。

 どうやら僕の住むこのエリアではもう静寂を楽しむどころか、秋の音を楽しむことさえも難しくなってきてしまったようだ。かつてはあぜ道農道の通学路であり、人と二輪車しか通れなかったところ、無理して何とか軽トラが走れる場所が、今では普通車がブイブイ飛ばして走るまでになってしまったのであるから…。子供の頃の記憶から、なんでこんな車がこの道を走るのだと、ついつい腹を立ててしまう…。

 僕が望むのは地球と人間が共に笑いあうこと。こうして散歩している時に、自然や地球と話しながら、あるいはその豊かさを享受しながら歩くこと。そんなことができれば素晴らしいと思うのだが・・・。

 けれども今では人間が我が物顔で、自然を破壊し、自然を隅に追いやってしまい、人間社会の中に、何とか自然がその形を大きく変えながらも、生きながらえている。そんなふうに僕の住む町もなってしまった。

 それならばいっそのこと山奥へでも、田舎へでも引っ越せばいいじゃないかと思われるかもしれないが、長男でもあり、そして何よりもこの住宅街の中で、小さいながらもある、自然みかん栽培畑を守りたい、いや死守せねばと思うので、この地から離れるわけにはいかない。

 でもしかし、歩いて思うのは、なんと人間は欲の多いことなのかということ。欲のままに自然をどんどん潰して、思いのままに変えていく。そして今や人が人を弾き飛ばしあうまでになってしまった。

 今、高山長房さんの「日本はドラコニアンが作った世界最強の神州!だから、破滅の深淵から這い上がる」(ヒカルランド)を読んでいるのだが、この本には人間社会の裏側を暴露する内容だらけだ。この本の内容が真実ばかりかどうかは分からないけれど、もしそうならば一部の人間はやりたい放題だ。

 1か月ほど前この本の前篇を読んだのだが、そこにも裏社会が暴露されてあり、読んでいると気分が悪くなった。今回は少しは慣れ、そのようなことはないけれど、それにしても人間の愚かさにあきれるばかりだ。

 権力者たちはこんなことに無駄にお金を費やしているのか。あるいは僕らが支払った税金、あるいや買った物の利益が、世界を破壊するものばかりに費やされているなんて考えると、なんてくだらない世界に生きているのかと思ってしまう。

 けれども同時に、もしこのくだらない争いをやめにして、共生社会に生きることができるならば、地球はあっという間に素晴らしい星へと戻るのではないかとも思う。

 もうやめにしようや。こんなにお互いが不信感に包まれて生きていくなんて。騙し合って生きることなんて、あまりにつまらないことだろう。ハッカー合戦を繰り広げなくても、お互いが信頼できるようになる努力をすればいいじゃないか。こんなことに税金が使われるなんて、そしてこんなもんで経済があり、それ一辺倒の中で生きているなんて、あまりにも寂しすぎる。

 僕らはむなしさの中で生きているのではないだろう。僕らがこの世に生きる意味は、少しでも魂を成長させ、ワンネスへ近づくこと。もしそれを否定したとしても、できることなら自分を成長させて死んでいきたいと思うのではないか。

 この世の生を終えて、あの世に変える時、僕達はその人生を振り返る。その時どれだけの人が空虚な人生を過ごしてしまったと思うことだろう。

 死ぬまでにどんなにお金を稼いだとしても、それがもし人を欺きもしたならば、そのことを誇れるだろうか。どんなに巨大な権力をもったとしても、それが多くの人を蹴落としてついてきたものならば、そのことを誇れるだろうか。それにそんなもの持って行けないしね。

 そんなこんなで1時間。

 三日月明かりは、何も言わずにただ照らしている。ため池の水はその輝きをただ映している。「明鏡止水」。そんな境地にも至らず、ウダウダ考えながら歩く秋の夜。

 禅の境地も遠ければ、悟りの境地などなお遠い。けれども少しでも世の中よくしたい。地球を救いたい。大げさなことを言うけれど、実際の所道端に落ちた空き缶をゴミ箱に入れるという、ちっちゃなちっちゃなことしかできないけれど、それでもコツコツやってくしかない。塵も積もれば山となる!

 がんばろっと!!