マザー・テレサの言葉に「人生の99%が不幸であったとしても、最期の1%が幸せであったならば、その人の人生は幸せなものに変わる。」というのがあるそうだ。

 かつて僕は十数年間高齢者福祉の現場で働いていたのだが、その間相談員、介護職員、(ついでに補助看)その他何でも屋として働き、いろいろな経験をさせてもらった。そして現場で働いている間に何十人という人の最期を看取ってきたのだが、10年目にして初めて満足いく看取りができ、その人も満足してくれたろうと思ったその時の話しをしようと思う。

 タカさんはいわゆる認知症。けれどもなにもかもわからなくなっているわけでもなく、しっかりしているところもある。口は達者で文句を言わせばその階にいる入居者さんの中で1番。それでもよく人に対して気も使い、時には誉めもしてくれる。いわゆる江戸っ子気質的お婆ちゃん。僕もタカさん節で説教されたり、時には「あんたは〇〇だから。」と涙の出るような言葉もかけてくれた(もちろんよい意味の言葉!)。そんなタカさんの気分転換は屋上に行くことや施設周辺の散歩、それと近くのスーパーへ買い物に行くことだった。時間に余裕があるときによく車椅子を押して連れて行った。

 ある夜勤の日、タカさんはナースコールを押しまくった。特に大した用はないのだが、10分位毎に鳴らした。時にはおむつを替えてほしいというまっとうな(?)訴えもあるので、無視するけにもいけないので都度ナースコールに対応した。その日の夜はタカさんだけでなくもう一人の認知症のお婆ちゃんマッさんもトイレやら何やらでナースコールを鳴らしまくった。そのお陰で0時過近くまで数分おきにナースコールが鳴り、その度対応するだけでなく、プラスみんなの排せつ介助や投薬業務、洗濯などなどのルーティンワークもこなさなければならないというひどく疲れる夜勤だった。(夜勤は1フロア16人の入居者を1人で対応)


 そのタカさんがある日入院した。そこは病院併設の有料老人ホームだったので、入院したといっても隣の建物。なのですぐ行き来できるのだった。このところタカさんの食欲がないので、様子見(?)の入院だったのだが、入院中に脚に血栓が生じ、約2か月後にタカさんは帰らぬ人となる。

 当時僕は介護の主任代行をしていたのだが、出勤した日はほぼ毎日休み時間などに病院へ入院している入居者のところへ様子を見に行っていた。そしてみんなに声掛けをしていた。もちろんタカさんのところへも行く。タカさんはかつての快調な口調ではないものの話はする。けれどもやはり食欲はなく元気があまりない。



 話しは変わり同じフロアにアイさんという方がいた。アイさんは多少認知症はあるもののしっかりしており、基本姿勢は自分の(できる)ことは自分でするというスタンスの人だった。自分自身にも、そして職員にも厳しい人で、職員への注文(特に布団のたたみ方)も多かった。そのアイさんが亡くなった時のこと。

 アイさんの最後は腰の痛みがひどく、ベッドからポータブルトイレに行くのにもかなり難儀してた。おむつは付けはするのだが、なるべくトイレに座ろうとする。そのためトイレに行く際はナースコールを押し、職員に少しばかし介助をしてもらうようになった。ある時アイさんからのナースコールがあり、それを僕が対応しトイレの介助をしたのだが、あまりに腰が痛そうなので、僕の持つ技術(と力)でもって介助し、できる限り痛みが生じないようにした。それがアイさんの負担を、痛みを軽減できると思ったからだ。そしてしばらくその介助を何度か続けた。

 (おそらくアイさんは僕が行ったその方法が一番楽だったのだろう。それでナースコールで女性職員が対応した時に、きっと僕の名前を出したのだろうと思われる。)

 ある時女性職員からクレームが来た。アイさんのトイレ介助を(力でもって)するのをやめてほしいとのこと。なぜなら女性職員では僕と同じようなトイレ介助ができないからだ。そこで僕は考えた。アイさんのあの苦痛の表情を見ると、アイさんになるべく痛みが生じないように援助してあげたい。でも僕ひとりでアイさんを援助することはできない。施設介護は24時間休みなし。みんなの力が必要だ。けれども僕の技術(と力)をもってしてならばアイさんは辛い思いをしなくて済む…。おそらくアイさんの状態からするとターミナル。今やるべきでは…。しかしながら僕は今主任の立場。全体を見なければならない。

 そして下した結論は僕もアイさんのトイレ介助を(ほかの職員と同じように)少し支えるだけとした。辛い決定だった。アイさんはそれを知ってか知らずか、痛そうな顔をしながらも自分でやらなきゃとPトイレに座った。

 数日後アイさんは亡くなった。アイさんの死に目には会えなかった。なんだか僕の心の中には後悔と非常に苦々しい思いが残った。



 ある日昼休みの時間にタカさんのところへ行くと、全く食事に手を付けていなかった。看護師さんに聞くと少しも食べないという。声をかけても食べようとしない。少し介助して食べるよう促すが、やはり食べようとしない。その時以前タカさんは結構甘いものをスーパーで買って食べており、今もその時に買った水羊羹がタカさんの部屋の冷蔵庫の中にあるのを思い出した。看護師さんに食べさせてもよいか尋ねると、よいとのことだったので、部屋までダッシュして取りに行き、介助すると食べてくれた。ここなら何をしようと(?)文句は言われないし、言わせないぞと思った。(もうアイさんの時のような後悔はしたくない!)

 けれども思えばあれがタカさんへの最期の食事介助だった。


 数日後、その日僕は遅番出勤。10時半から勤務開始で、途中交通渋滞に巻き込まれたりして10時25分職場に着いた。着替えをしてフロアへ上がると、職員から「タカさんが亡くなった。」ことを知らされた。携帯を見ると着信表示が…。

 タカさんの病院出発は当初10時の予定だった。けれども諸々の事情が重なり出発は結局10時40分となった。そのため僕はタカさんを見送り、別れを告げることができた。

 出発が遅れたのは偶然かもしれない。けれどもタカさんは僕が来るのを待っててくれたような気もした。


 タカさんが亡くなり寂しい思いもあったが、僕の中にはようやくいい介護(看取り)ができたという気持だった。僕のできる限りのことはしてあげられたと思った。きっとタカさんも満足してくれたのではないかと思った。フロア職員もなんやかんやと言いながらもいろいろとタカさんのお世話をしていたし…。


 自慢じゃないが一時期僕は高齢者介護の仕事は天職だと思っていたことがある。東京で働いていた時も介護をさせればトップ20に入るぞという自信はあった。けれどもこうして納得いく看取りができるようになるのに10年かかった。

 タカさんが元気なころどのような生活を送っていたのか分からない。タカさんのファイルにとじられている事前調査票などで読んだのだろうけど今となっては覚えていない。けれどもそのころがよくとも悪くとも、きっと最期の1%は幸せだったと思う。だからタカさんの人生は幸せであり、笑顔であの世に旅立ったと思う。


 今から4、5年前の出来事ことだ。

それから僕は新たな道を歩み始めた。まだまだ途上、道半ばだ。



 最後にマザー・テレサの言葉をもうひとつ。

 「私の行いは大河の一滴にすぎない。でも何もしなければその一滴も生まれないのです。」

 新たな世界を切り拓くぞ。




 らいふあーと21~僕らは地球のお世話係~