今や地域にひとつは必ずあるといっていいぐらいの高齢者介護のサービス事業所。デイサービス、グループホーム、有料老人ホームにホームヘルプetc。朝夕あちこち高齢者を乗せて走る送迎車。一体日本はどれだけ高齢者大国なんだ!と思わずにいられない。まさに老人大国日本。

 新聞に挟まれていた広告に、サービス付き高齢者向け住宅のチラシが入っていた。そのチラシを見てみると、そこで暮らすには家賃をはじめ諸々の諸費用がかかり、それらを合計すると結構いい値段がする。その中のひとつに生活支援サービス費というものがあり、要介護(要支援)区分によってそれぞれ費用とサービス提供時間が違う。例えば要介護3だと1か月15,000円でサービス提供時間が5時間までとなっている。そしてこの5時間を超えると、1分毎に50円が掛かってくるそうだ。

 この1分毎に50円というのが心に残った。というか引っ掛かった。1分ごとって…。何だか寂しい時代に入ったものだと…。貧乏性なのでタクシーにひとりで乗るとついつい料金のメーターが変わっていくのが気になるのだが、介護もタクシー的時代に入ったような気がした。

 介護士さん、サービス提供時間を超えた場合は、ちゃんとメーターを表示してね。年金厳しいから…。払えない場合は途中で降ろされるのかな…。

 以前僕が書き上げた介護論。全く注目されないのだけど…。これからの介護の在り方について解説した。「QOLからQODへ」、「認知症生涯発達論」などなど、イイこと書いてるのになあ。もっとマニュアルとして使えるものを作らなければならなかったか。儲け損ねた…。

 大手企業がどんどん参入してきて、今や土地活用のひとつともなって来たこの業界。きっとこれから益々マクドナルド化していくのだろうな。それを思うと、ひどく悲惨だったこともあるけれど、何でもありで、何でもできた昔が懐かしい。

 ただ思うのはこうして多様なサービスが支援や介護を必要とする高齢者に提供されるようになったことはとてもよいこと。それぞれが必要とするものを選択し、最期まで自立した生活、あるいは自己実現を果たすことができればいいと思う。

 障害者の人々へのサービスもこうしていろいろと利用できるものができればいいのに。極論を言ってしまえば、高齢者介護において介護者たちは、その人が亡ればそれでおしまい。またしばらくは自由にできる。けれども障害のある子供をもつ親たちは、「私たちが年を取って動けなくなった時、あるいは私たちが亡くなった時、この子はどうなるのだろう。」と不安は続く。

 障害者と(その親)と関わり始めて半年以上が過ぎたが、今でもどのようなことが生じて障害者と言われる人(子ども)たちが生まれるのか分からない。以前よりも分からなくなった。そこには遺伝的要素もあるのだろう。今では放射能●●…。またスピリチャル的に言えばカルマ等の影響も考えられるのかもしれない。けれども普通に見るに、どんな人たちにも障害を持つ子供が生まれる確率は等しくあると思う。そうとしか思えない。

 だからこそ両親・子供両者が安心できる仕組み(社会)ができればいいのにと思う。社会一般にもう少し認識が生じればよいと思う。決して他人事ではない。けれどもそう考えると、犯罪被害者の会だって、薬害エイズ、交通事故、冤罪、虐待、自殺などどれもが他人事ではなく、もしかすると自分たち、あるいは家族がそこに巻き込まれる可能性はある。

 そう思えば、それぞれ個別に対処することも必要だけれども、全体を俯瞰することも必要だと思う。大きな全体像を描き、それに向かっていくことも必要だろう。いわゆる虫の眼鳥の眼(?)というやつ。 けれどもひとつ言いたいのはタクシー的社会となるのはやめて欲しいということ。生きていくのにメーターは見たくないし、変なことでドキドキしちゃうから。小心者だから心臓に悪いから…。



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