かつて高齢者福祉の現場で働いていた頃、スーツ姿にあこがれた。毎日ジャージ姿でう〇子やシッ子にまみれていたから、自分もいつか出世して偉くなろうなんて思っていたこともあった。その象徴が(ジャージスタイルから)スーツ姿に変るということだった。

 それが気つけばここ数年間スーツ姿のことも多かった。コーディネーター業務を引き受け、交渉のため各地へ毎日スーツを着て車を走らせていた。(夏はクールビズでポロシャツだったけれど…。)

 ではかつての願いどおりにスーツ姿となり、それで満足したかというと、 答えはノーだった。全然しなかった。逆に今度はジャージ姿が懐かしくなり、現場姿こそが格好イイなどと思ったりもした。結局人間って「隣の芝生は青く見える」といわれるように、自分の持っていないものを羨ましく思ったり、欲しいと思ったりの生き物だと思えた。

 さて現在の自分といえば、時々スーツ姿にもなるが、普段はシャツに黒のジーパンのことが多い。(今はポロシャツにスラックス)。 そしてチャリンコを走らせローラーに出かけたり、あるいは打ち合わせに行ったりする。車を運転して行く時もあるけれど、それは雨の日、配達の日、もしくは急いでいる時など。それがいいとも悪いとも思わず、当たり前というか、ごく自然な姿。


 先日チャリンコで走っていると、ちょうど昼休みで会社から出てきたスーツ姿の6,7人の集団に遭遇した。みんなシャツにスラックス姿で、中にはポケットに手を入れ歩いている者もいた。午前中の仕事に一区切りつけ颯爽とした人たちだった。これからお昼を食べに何処かへ出かけるのだろう。

 けれども全然羨ましいと思わなかったし、また格好イイとも思わなかった。結局彼らが格好良く見えたのは、会社の力と西欧的価値観のせいなんだ。会社の仕事が彼らを力のある存在と思わせ、そして欧米諸国の世界を席巻した西洋文明、いわゆる「スーツ」が、それを以てスタンダード、あるいはエリートと思わせる。

 それだけなんだ。結局はスーツなんてただの借り着に過ぎない。そう見せているだけ。英国紳士の作り出したイメージでしかない。

 本等はそれ以上に必要なのは、自信と実力だ。日本の侍が外国に行き、そこで写した写真を見たことがある。ちょんまげに着物姿、それに刀を持った姿が撮影されているのだが、その姿は威風堂々としていた。欧米の進んだ科学文明社会の中でも、何もひけ劣らぬ威厳に満ちていた。

 さて現在の自分。自分で事業を立ち上げ1年2か月が過ぎた。まだまだ稼ぐことはできていないけれど、ようやく自分の中に幾ばくかの余裕と言うか、落ち着きが生じつつある。そして少しばかしの自信が芽生えつつある。自分の足で立っている自信。

 これこそが自分の求めていたものだと思う。この自信が実力を伴い本物となれば、つまりは成果を上げることができれば、どのような格好をしていようとも、堂々としていられるのではないかと思う。

 結局スーツ姿が格好イイというのは幻想だ。世間が作り上げたイメージだ。それよりも自分自身の中にある地に根付いた自信。これこそ大切なもの。

 スーツに身を包んだ羊よりも、自分の中にあるしっかりした自信。こちらを確実に築き上げたい。そう思う今日この頃である。




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