理想的な心のありかたとはどのようなものなのでしょうか?

男性であれば、どんな時も自分の心をぐっと掴んでおり、自分を客観的に見ることができること、あるいはいつでも自分を取り戻せること。そんな心に憧れたりもするのではないでしょうか?女性であれば、人をやさしく包み込むことができること。これは私の願望でしょうか?でもこの能力は男であってもそうありたいものです。

けれども実際は何度もそう思いつつも、いつの間にかそのことを忘れて自分自身を見失っています。ある時ふとそのことに気がついて、「しまった!またやってしまった…。」と後悔の念が湧くという、そんな日々の繰り返しではないでしょうか?


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子どもの頃には自分のこころについてなど全く考えたこともありません。大人になっても
30過ぎて少しだけ、40となってようやく考え始めるというものなのでしょうか?かの孔子は三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。(三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった。)といいます。(「故事ことわざ辞典」より)


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さて、私の自身のこととなりますが、私にはすぐに格好良くあろうとすること、あるいは格好良く見せようする悪い癖があります。かつて新入社員として入社した際に、その企業は毎日運転することが多いので、車の運転の適性判断がされたことがあります。その時のコメント欄には「あなたは自分を格好よく見せようとする傾向があります。」ということが心理面の欄に見事に書かれていたことがあります。(残念…。)

そしてそのコメント通り、若き頃は運転経験がまだまだ浅く運転も下手であるにも関わらず、格好いいと思われる運転をしようとしては、逆に事故を起こしたり、車をぶつけたりしていました。今振り返ってみるとあのころの私は格好いいどころかその正反対で、格好悪すぎ~穴があったら入りたい~と思うのです。頭の中の私と実際の私との乖離が相当激しかったのです。

何度も車をぶつけたり、警察につかまったり、あるいは事故を起こしたりすると、いつしかさすがに私は運転が下手であるということを認識し、心からそう思いました。そしてもう格好いい運転をするよりも安全運転をしようと心がけるようにしました。するとその時からようやく事故を起こすこともなくなり、ぶつけることも減っていったのです。今ではたいていの場合周りの状況を見つつ、どちらかというとゆっくり目に車を運転するように心がけています。お陰でぶつけることも極めてゼロに近くなっています。

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さて思うに、心もこれと同じではないかと思うのです。今でも私の中には「格好良くありたい。」という心があるのも確かです。振り返れば確かにこれまでに仕事においては、格好いいと思われるようなことをしたこともあります。更に私の中には完璧主義なところもあれば、一番になりたいという心もあります。それが故に、未だにどこかギラギラしているところもあります。けれども本当の私は超内向的で、臆病であり、無茶格好悪いというのが真実なところです。それ故乖離が激しいのです。


そこでこれもまた反省をしようと思うのです。ダメな私を受け入れてみようと思うのです。心から反省して、ありのままの私を受け入れたいと思うのです。そして私の心を見つめられるペースで物事に取り組み、そして周りを見渡せるペースで歩んでいこうと思うのです。


誰かに格好いいと思われたり、憧れられたりする自分よりも、自分が自分らしいと思える自分を形成していくということ。それが本当に大切であると思うのです。テレビの画面では、いつも明るい人もいれば、格好いい人もいます。けれどもそれは画面を通してだけのことも多く、結局自分というものは自分以外にありえないのです。そしてその自分とはこころ次第です。


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今からだって遅くないはずです。人間気付いた時がいつだってスタートです。瞑想をして心の中を見つめつつ、そして自分をしっかり掴んでおくことを意識して、自分らしい心を形成し人生を創造していけばよいと思うのです。私は孔子には足元にも及ばないので
40を超えても惑いの連続です。けれどもあの孔子ですら自身の天命(使命)を認識したのは50です。いつしか車の運転と同じように周囲の状況を見ながら、自分の心をうまくドライブできるようになりたいものです。そして使命を果たしたいものです。

 
人生いくつになっても学びの真っ只中です!

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