ばあちゃんの49日の法要が終わりました。
             
葬儀が終わってから毎日理趣経、観音経、般若心経、そして真言を唱えていたのですが、それはじいちゃんの時とは違い、ばあちゃんとの語らいの時でした。
             
1年半前に亡くなったじいちゃんの時は無事に極楽浄土につけるようにとの思いで毎晩読経していたのですが、今回はじいちゃんが迎いに来て、手をつないで浄土へと向かっているという感覚だったので、その見送りと語らいだったのです。

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毎日ばあちゃんの遺影と骨壷を前にして読経をしていたのですが、先日思ったことがあります。それは、「何故人はこうして骨とお墓を残すのだろう?」ということです。
             
お墓というと、私たちが日本の歴史として見る前方後円墳などの古墳もそうですし、エジプトのピラミッドもその時の王のお墓です。権力者たちはその時の力を誇示するかのように豪華なお墓を造り上げました。そしてそれは時の権力者だけでなく、いつしか誰もがお墓として墓石を積み上げるようになりました。
             
果たしてこれは人間の生前に持つ死後の欲望、つまり死後も自分自身を残したいという欲望ではないだろうかと思えたのです。(斜めに考えすぎかな???)
             
というのは、数日前産業廃棄物の事業を営んでいる人に会い話しをしていたのですが、廃棄処分場を訪れるとそこには墓石がいっぱい捨てられているそうです。おそらくもう誰も世話をする人がいなくなり、お寺の墓地にずっと放置されているお墓を処分したのでは?ということでしたが、思わずその現場を想像すると、何とも言えない思いがよぎったのです。
             
そんなことがあるというのにみんなそんなに死後も自分自身を残したいものなのでしょうか?(僕はどちらかというと、お墓にも入れずに、骨を海に流してくるだけでいい派なのです。)そうするといつしか町中、いや日本中がお墓で埋め尽くされるのではないだろうか?と思ったりしてしまいます。

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最近5次元のことをずっと考えており、現在の結論としては僕たちの本体は意識であり、それは5次元(以上)の存在であり、この肉体(身体)は今世の着ぐるみであるということです。それ故に本体である意識は、肉体から離れあの世に戻る時徐々に着ぐるみ自体への執着は無くなると思うのです。(そのための49日であるはずです。)

             
そして読経している間に出てきた結論として、大切なことは、
             
① 故人を心の中に住み続けさせること。
             
② (その家を継ぐ)残された者が先祖を尊ぶ気持ちを持ち続けること。
             
この2つではないかと思ったのです。(この意味において仏壇などをこれらの機会として置いておくことはよいのかもしれません。)
             
そうすることによって、本体の意識もそれらを感じ取り、喜んでくれ、また私たちを守護してくれると思うのです。
             
そしてそれを更に突き詰めていくと、自分という存在が数知れない先祖の結果に今ココにあるということ、そして元をたどれば誰もが(アダムとイブに)つながっているワンネスの世界であるということであり、共存していく心を持つということではないかと思うのです。

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残念なことに葬儀も供養もいつしかビジネスがしっかりと組み込まれてしまっています。一度しっかり見直すことも必要ではないでしょうか?
             

なぜなら世界は一つに向かい始めているのですから。


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