宗教について考えてみた。

最初に言っておくと、自分の宗教に対する考えは、もうずいぶんと前からキリストも仏(ブッタ)もイスラム(マホメット)も見たもの、見た世界は同じであり、ただ表現の違いであること。

それぞれの個性がそこに現れたというもので、根源は同じであるということである。


ただ今回はその部分を題材とするのではなく、別の観点から、つまり宗教の役割という点から捉えてみたいと思う。


自分が思うに、宗教をひと言でいうと、その役割は「(生きていく上での)心のよりどころ」であると思う。

けれども歴史上、そして現在も続くイスラムとキリスト間の争い、そしてこのところ特にクローズアップされるイスラム(過激派)によるテロ、

更に我が国日本においては、数々の新興宗教が設立され、その中には盲信により人生を狂わせたり、他者に危害を加えたりするということも起こり、

多くの人が宗教に対し、その一般的な歴史的価値を認めつつも、レッテルを張り、敬遠しているのが現状だと思う。


それが故に日本人の多くは(戦後)無宗教社会を選び、その代わりに宗教的行事を宗教とせず、生活の中のイベントとして捉えることを選択した。

実際のところそれを仕掛けている企業もあるが…。


宗教という心のよりどころを捨て、その代わりに社会に、そして人々の暮らしの中に大きく台頭してきたものが、物質であり、お金である。

けれども物質はカタチあるモノであり、それは、いつかは壊れ、失われていく。手中にあるようでないもの。

またお金においては数えられるものであり、1億あれば、5億あれば…とその欲望は膨らむ一方である。

そしてその枚数(金額)が減っていくと、今度は逆に心配が膨らんでゆく。


更にそこにプラスして、近頃は権力者・エリートたちのその乱用によりその価値、そして信頼性が揺らいでいるのが現状である。


宗教の信頼が失われ、物質主義の限界が露呈され、お金の信用と価値は揺らぐ。

このような状況の中で、人々は一体何を心のよりどころにすればよいのだろうか?

科学?スピリチャル?芸術?

科学…その進歩は凄まじい。情報のスピード、情報量、どちらも科学の力による。けれども人々はモラル無き科学の進歩を恐ろしく思う。

スピリチャル…ブームである。(個人的に自分もはまっているし、信じている。)けれどもまだまだいかがわしく思う人も多いし、実際にいかがわしい人も多い。

芸術…その可能性あり。けれどもどうやって心のよりどころに?心に余裕は与えるだろうけれど…。それにアートのセンスなんてないわという人も多い。


自分達は今すべてが不透明な時代にいる。

そこに輪をかけて情報過多により混乱は増す一方である。

このような時代の中で人々は生きていかなければならない。

如何に生きるか、何のために生きるか。

そのために何を持って心の拠りどころとするか、何を信じていくか?

生きていくための自信はどうやってつけていけばよいのか?

そこに宗教が再び入りこむ余地はあるのか?

別の役割があるのか?

答えは「分からない。」である。

けれどもその答えをこの先考えていきたいと思う。



らいふあーと~僕らは地球のお世話係~