働く(仕事する)ということについて改めて考えていますが、前回は仕事するとは、社会に必要(と思われる)ものを提供し積み重ねていくこと。そして社会のニーズに応えていくこと。あるいはそこから社会をリードしていくことということを書きました。


それが現時点での私が考える「働く(仕事する)」ということの定義なのですが、実はもうひとつあります。それは現代社会の中でほとんどの人が、「働く(仕事する)」とは、お金がつきものである、つまりお金に換算できるという考えを持っているということです。いえ、そこに縛られているともいえるでしょう。私はこの「働く=お金に換算できる」という概念、縛りを変えられないものかと思っています。というのはかつて重症心身障がい児者と呼ばれる人たちとの出会いがあったからです。


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重症心身障がい児者とは、重度の肢体不自由(身体障がい)と重度の知的障がいを併せ持つ人たちのことです。もっと簡単に言えば、小学校12年生ぐらいまでの知能かつ、寝たきり状態の人たちといえば想像できるかと思います。そのような人が日本には約43,000人いるとされています。


このような状態の人たちですから、一般的には働くことはできないと言われています。実際かつてある(ビジネス)プレゼンテーションの場で彼らのことについて話しをすると、プレゼンの後その場にいた人から「彼らは働くことができないですよね。」といわれたことがあります。その時「そうじゃない!」と説明したのですが、彼は「はあ?」と分かってもらえませんでした。


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私は数年前に初めて重症心身障がい児者たちに出会いました。彼らの在宅生活の調査を施設から依頼されたのがきっかけです。その際多くの重症児者と出会いました。私と同じぐらいの年齢の人から、20代、10代、小学1年となったばかりの子など様々な年代層の人たちと出会い、そしてその家族とも会いました。そのような状態の彼らとの(初めての)出会いはあまりに衝撃的であり、かつ深く考えさせられるものでした。


彼らとの出会いを通じて、生きるとは何なんだろうと考えたこともあります。また彼らから(仕事を遂行する)力を与えられたこともあります。あるいは彼らがそこにいるだけで、心を落ち着けられたりもしました。更には家族をつないでいる、時には彼らの存在が地域をつないでいる光景を見ることもありました。話しをするわけでもなく、寝たきり状態であるにも関わらず、彼らは周りの人々に影響を与えているのです。それを通じて私は、たとえ寝たきりで言葉がしゃべれなくても彼らは彼らなりの役目があり、その役割を果たしている、彼らには(生きる)価値があり、彼らは働いてもいるのだと思ったのです。


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彼らはお金を稼ぐわけではありません。癒しを与えたからといってお金を請求することもありません。ただそこにいるだけです。けれども彼らはそこにいて人々に影響を与えるだけの価値を持っているのです。そしてその価値を日々積み重ねているのです。この価値(の積み重ね)こそ彼らの働きであり、仕事ではないかと思うのです。


つまり働く(仕事する)とは、社会に必要とされる価値を提供すること、それを積み重ねていくこと言えるのではないでしょうか。そこにお金に換算できるとかできないということは関係ないのです。言い換えると、働く(仕事する)とは、人々に喜びを与え、幸せにしていく行為と言えるのではないかとも思います。


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もしこの概念が広がると働く(仕事する)ということがもっと自由になものとなって来るのではないかと思うのです。人々は豊かになり、いろいろな人やものを大切にするようになるかと思うのです。そして共生社会が広がってくると思うのです。


現代社会は何もかも使い捨てです。それはモノだけでなく、人や人の心までも使い捨てとします。そのような社会に未来はないといってもよいでしょう。持続可能な社会、本当の意味で社会を発展させていくために何のために働く(仕事する)のか、私たちは再度考える必要があるのではないでしょうか?





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